ビルダー会活動内容

       阿波太布の伝承、その概説

 衣食住のうちで、衣のみが他の動物にはない、人間特有の属性である。原始時代のみならず、ヒトが文字による記録を持ち始めた古代においても、寒さしのぎに動物の毛皮は使用されたであろう。所により蚕の繭を原料とする絹織物はすでに存在していた。ただし日本列島では、動物の毛を織物の材料とはせず、木綿ワタの利用は近世以降のことだから、木の皮や草の茎から採取した繊維で布を織り実用の衣服の用に供するほかなかった。

 奈良平安朝の文献に栲(妙・タエ)と記される太布(タフ)は、「古代の木綿」といわれる。その樹皮からの糸づくりが、コウゾ、カジノキ(ともにクワ科)のほうが、他のシナノキやフジなどより比較的容易で、生産量が多かったからである。中世にはアサとカラムシ原料の織物に首位の座を譲る。しかし、これらの草木布は江戸時代を通じて爆発的に普及したモメンに圧倒駆逐され、生産が激減した。東北地方南部以西の日本各地でつくられていた太布も、わずかに四国山間部だけの織物となった。伊勢松阪の本居宣長は、コウゾ、カジノキをすでに紙のみの原料と思っていた。

 木頭地方では明治時代になっても、太布づくりは盛んだった。各家庭に地機(じばた)があり、ピークの明治44年に旧木頭村内の生産量総計は2千反。山間の僻地ゆえに木綿の流通が遅れ、木綿代わりの自家製衣料となり、丈夫である特長を活かして各種の袋や畳の縁に加工された。地域唯一の換金生産物であり、肌触りのよい木綿と物々交換もされた。「太布織のできない娘は嫁のもらい手がない」という通念が生産活動を支えた。同時期、鳥居龍蔵の報告にあるように、台湾のタイヤル族の娘が、地機よりもっと原始的な用具で布を織ることができて、初めて一人前の女性と認められ、入れ墨が許されたという習俗と軌を一にする。

 大正から昭和にかけて、木頭杉が伐採搬出されはじめ、木綿製品が購入できるようになると、太布の生産量は減少の一途をたどる。戦中戦後の物資不足時にわずかに復活の気配があったが、昭和30年以後の高度経済成長と空前の木材ブームの陰に、完全に見捨てられた存在になっていた。

 地域が太布を見直す契機となったのは、昭和37年に文化財保護委員会(当時の文部省の外局)が、「阿波の太布紡織習俗」を「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗資料選択基準」に適うものとして調査を始めたことである。昭和29年から昭和48年まで、計38種目の調査が行われたが、服飾習俗に関するものは、越後のシナ布(昭和42年)、出雲の藤布(昭和42年)、鹿児島県の芭蕉布(昭和44年)、

鹿児島県甑島の葛布(昭和45年)、佐渡のイラクサ織(昭和48年)の、太布を含めて全国で6種目。太布の報告書は昭和50年に、文化庁が完成させ発行。それ以前の昭和44年に、岡田ヲチヨ氏が県教育委員会から工芸技術部門の無形文化財に認定された。その認定を、昭和59年に、阿波太布製造技法保存伝承会が受け継いで現在活動中である。                     (平成28年6月)

 

 

 

2015年10月01日